2012年12月4日火曜日

鹿妻、語り継ぎ−3


今回、311の当日の映像と、その後の映像を見せて頂き、
最近、語り継ぎという活動も始められたのもあって、
体験された事について、お話、聞きました。

鹿妻南という地区は、
石巻の駅から車で10分くらい、海から800mくらいの所です。
ここは、昔からの村,町ではなく、
新しい住宅がたくさんあった場所です。
なので、震災前はあまり、地元の交流がなかったとか。
津波が家を全壊,半壊させ、
1年9ヶ月経った、今は、更地の間にぽつぽつと家が残っています。

今回、お料理を教えてくださった、
ばっぱ達(おばあさんと言う意味、そうは言っても、みなさん、お若い)の中の
齋藤さん夫妻とお嬢さん、遠藤さんとふたりのお子さんの親子は、(お姉さんも)
近くのホームセンターの屋上(100名くらい)にいらして助かったそうです。
また、車中に居て、流されたけれど、助かった方もいらっしゃいました。
その他、この地区では、スーパー屋上(300名くらい)にいらして助かった方々も
いらっしゃいます。

遠藤さんのお話では、
6日間はその屋上から、降りれず、
物資も来ないで(避難所には運ばれていても。)、
男性が水や薪を探しに行って、生きながらえたそうです。
津波の水、自体はある程度は引いても、
重油や魚や家や車や、そして亡くなった方々、何もかもと、
ぬかるみがひざ下くらいまではあって、
臭くって臭くって堪らないそうで、
とても、女性や子供は降りて行けなかったそうです。
その後、蠅が大量に発生して、ペットボトルに砂糖水など入れて呼び寄せると、
あっと、言う間に一杯になったそうです。
靴は履いている1足しかないしで、レジ袋を被せて、歩いていたそうで、
それも、大変だったそうです。
(その他、レジ袋はいろいろ使い道があるので、日頃から、持ち歩くといいそうです。)

避難した方々の中に、赤ちゃんが居て、おひとりのお母さんは母乳が出なかったので、
壊れた家の中の冷蔵庫から、見つけてきた、
豆乳を薄めて赤ちゃんにあげたりしたそうです。
子供も脱水になり、ふらふらになってしまい、
やはり、見つけてきた、ポカリスエット500mlを一気に飲んだら、
しゃきっと、したそうです。(日頃から,水の備蓄は必要ですね。)
食べ物は、重油+へどろまみれの魚(漁港なので、魚はいっぱい落ちていたそう)を
焼いて、(ホームセンターだったので、薪にする木があった為)
廻りは捨て、中の部分をみんなで分けて食べたりしたそうです。

また、ヤマト運輸さんがホームセンター向かいにあり、
避難していたそこの方の判断で、冷蔵庫や冷凍庫にあった、お菓子なども、
100人で分けて食べたそうですが、
はしやスプーンはないし、手は洗えないしで、
子供のランドセルの中にあった、定規やえんぴつを使って食べたそうです。

そのホームセンターは、屋上すれすれまで、水がきたそうで、
建物も傾いたけれど、運良く、津波が建物中のものをみんな押し流したので、
倒壊せずに済んだそうですが、お隣のスーパー屋上の方々は
いつ隣が倒壊するかと心配していらしたそうです。

遠藤さんのご主人のいらしたわかめの養殖などをしている
十三浜、大指は、
20mくらいの津波が来たそうで、
その体験については、下記にくわしく書かれています。

漁師の方々が船を守ろうと、沖に船を出したのを高台から見ていらした遠藤さんは、
船が垂直になる程の津波だったと説明してくださいました。
ベテラン漁師の方々もロープを自分に結び、
もし、死んでも見つかって、保険がおりるようにと考えたそうで、
結果的には助かったんですが、
もう1度来たら、船は捨てると言ってらっしゃるそうです。
(船は、3000万くらいするそうですが)
助かった船は一部なので、
お金も大変だけど、船を注文したけれど、
来るのは、5年後だそうです。

この湾は橋も落ちて、孤立して、
空から見えるように、sosと書いたりして助けを求めた所で、
遠藤さんも鹿妻にいらした奥さんと連絡取れず、
奥さんの方は、亡くなったと思っていたそうで、
5日目に、20−30kの距離を歩いて、ご主人が探しに来た時は
信じられなかったそうです。

その後、齋藤さん、遠藤さんご一家は、被害が軽い知人宅に身を寄せ、
昨年秋にやっと、仮設に移り、今は仮設暮らしだそうです。
近くのスーパーもやっと、先日再開したそうで、
不便な生活は続いていらっしゃいます。

つらいお話なのに、いろいろ聞けて、
体験した方々から、直にお聞きするのは、
とても、心にずしりとくるものが、ありました。
本当に、ありがとうございました。